2010年08月10日
旧軍と祖父の思ひ出
昨日
普段開けない押入れで
探し物をしていたら
出てきた。。
(;゚~゚)ノ コレは

祖父の奉公袋

中身
これ以降
今まで以上に
唐草人の個人的な
呟き(つぶやき)なので
時間のある人だけどうぞ。
またオチもありませんし
実際に聞いた事を書いてますので
現代の感覚では
差別語に当たる言葉が
あるかもしれませんが
ご容赦を。。。

軍隊手帳

中身
手帳の中身を何気なく見て
祖父が生前語っていた事が
フラッシュバックしてきた。
祖父は
大東亜戦争中
朝鮮半島へ渡り
その後
支那方面へと
出征したそうである
配属部隊は
輜重隊<しちょうたい>
(現代の補給部隊に相当)
と聞いた。
普通の人が
思い浮かべる戦いと言えば
実戦部隊×実戦部隊。
占領地域内を主に行き来する
輜重隊は安全と思われる。
が。。。
ある日
祖父の所属する部隊は
支那人からの奇襲攻撃を受け
甚大な被害を受けたそうである。
祖父も支那人からマサカリを
両目の間・鼻の付け根の辺りに受けたが
そのまま失神した為
襲撃者から「死亡」したと思われ
九死に一生を得たらしい。
キズは残ったが
運の強い人である。
運が強いと言えば、、
唐草人の父方や母方の一族に
大東亜戦争での
戦死者や戦災で亡くなった方は
申し訳ない事に。。
一人もいない。。。
自分が聞いた
祖父の戦闘体験は
これだけで
もっとあったかもしれないが
自分自身がコゾーだった為
(現在でも!?)
詳しく聞かなかった事が
非常に悔やまれる。
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手帳記載の
作戦参加のみ列挙
冬期季作戰参加
第一次宜昌作戰参加
第二次宜昌作戰参加
漢水作戰参加
宜西突破作戰参加
宜昌北方作戰参加
長沙作戰参加
警備地境東辺ノ掃蕩作戰参加
浙?作戦間裏西地區反攻作戰ニ参加
※?は変換出来ず
以上原文ママ
他は各地域名で「警備」
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父は
ミリタリー関係が
好きではない方で
従軍中の話は
一切知らないそうだ。
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終戦後
その年の内に
下関へ引揚げて来て
地元へ戻り商売を始めた。
が。。。
ほどなく誤って鼓膜を破り
耳が
ほとんど聞こえなくなった為
商売を妻(祖母)に任せ
彼は
「書」と
「俳諧」と
「盆栽」に
没頭したそうだ。
ハタから見ると
働かずに
好きな道楽の極みにいて
うらやましい人生であるが
実際のところは
商売の用を成さない自分を
周りから暗に責めらる為
何かに打ち込める事が
欲しかったらしい。
だが
彼の書や俳諧の号は
「紫春」(ししゅん)
紫の春とは何とも洒落ていて
少しも暗さを感じさせない。
蛇足だが
唐草人が
何か作った時の号は
「紫雲」(しうん)で
常識に囚われず
雲の様に自由でのびのび
洒落ていきたい
との思いがある。

バイク貼付中、ステッカー
さて、
晩年の祖父は
「書」は八段の域に達し
好きな時に
表具屋を呼び
掛け軸を百軸以上作ったり
「俳諧」はどこでも
即興(数秒)で句を作り
「盆栽」は
自宅の敷地は言うに及ばず
知り合いの敷地まで借りて
広げていた。
それらも
形見分けや処分などで
現在自宅には数軸
俳句も数点
盆栽も同程度しか
残されてないが、、
思い出は残っている。
祖父が逝き16年
祖父に代わり
家業に精を出し
実質的に
5人の子供を育てた
祖母は10年になる。
当たり前だが
父母がいなければ
現在の自分は
生まれてこないし
祖父が戦で
命を落としていたら
父すら存在しない。
その偶然??の
積み重ねで歴史や
現在の
自分が生かされている。
そう思うと
非常に稀有な事で
自分はもちろん
父母や祖父母
そのもっと、、
ずっと。。。。
神話まで遡るくらいから
関わった人達と事柄全てに
心からの感謝を捧げたい。。
「有り難うございます」と
8/6・8/9が過ぎ
もうじき
8/15がやってくる。
-温故知新-
この意味を噛み締め
今年も衿を正し
祖父や祖母
ご先祖様を迎えに
墓参りに行こう。。。
チャンチャン
(´∀`)ノ by 唐草人
祖母の弟は特攻候補の予科練?で戦後は輸送機で朝鮮戦争向けの武器弾薬を運んでたとか~
どちらも『出征?の時に曾祖母が長靴より厚い牛ステーキを食わせてくれた(物資困窮と一小作農の懐を考えたら、どんなに良くても豚か?)』と言ってたのが懐かしいです。
コメント有り難うございます
祖父様ご兄弟様
祖母の弟様
有り難うございました。
親が子を思う心。。
良い
お話を聞かせて貰いました
有り難うございます
(´∀`)ノ by 唐草人